2009年05月17日
夢を叶えるゾウの水野敬也さんのメルマガ
掛川JCメンバーの小林くんが教えてくれたメルマガ。
小林君は、4月に結婚しました。
おめでとう!
じ〜んと心にしみる文章です。
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母親(通称・オカン)は
「ダウンタウンのごっつええ感じのコント」
「次長・課長の河本のオカン話」
を始めとしてお笑い芸人のコントや漫才において、
最もネタになることが多い題材である。
また、自分の母親の面白おかしく取り上げるブログやウェブサイトも存在
する。こうした滑稽なオカンネタは、多くの人にとって、「分かる、分かる」
と「共感」を呼ぶネタであり、未来永劫、人の会話においてオカンは存在し、
オカンの行動や仕草は(ある意味で)バカにされ続けられるであろう。
オカン。
それは1つのジャンルを築き上げている。
しかし、ふと、思った。
どうしてこれほどまでに母親は面白いのだろうか?
オカンの面白さ。
そこには「共感」という一言では語り尽くせない何かがあるような気がした。
そこで、先週、実家に帰る機会を持った私は、
その理由を探ってみることにした。
周囲にいる若い女性とオカンの違いを観察してみることにしたのだ。
リリーフランキーの東京タワーを読んだばかりだった私には、
猛烈な「親孝行欲」が生まれており、実家に帰るなり、オカンに言った。
「親孝行がしたいのだけど、何かやりたいこととか、欲しいものない?」
すると、0.5秒でオカンは言った。
「ない」
あまりの間髪入れなさ、そして潔さに閉口せざるを得なかった私であるが、
隣に座っていたオトンにも聞いてみた。
「何か欲しいものない?」
「ない」
なんたる無欲。
この人たちはどこに向かって生きているのだろう、と本気で疑問に思った。
しかし、しばらくしてからふとオトンの顔に光が生まれた。オトン言った。
「あ、ある!」
そしてすっくと立ち上がったかと思うと両手を腹のあたりに添えて、
「こうやって腹に巻くだけで脂肪が落ちるいう機械あるらしいがね。
テレビでやっとったが。あれ欲しい」
すると今度は、0.2秒でオカンが言った。
「あんなもん嘘だが」
するとオトンは
「やっぱ嘘かね…」
そういって肩を落とし、座っていた椅子に戻った。
この時も。
オカンの存在ややりとりがなんだが面白いということは感じるのであるが、
「どうして面白いのか」その理由はまだ理解できていなかった。
しかし、あくる日。
私は、オカンがどうして面白いのか、
そのヒントとなる事実を発見したのである。
私が東京に戻る日の昼。
オカンが言った。
「あんた今日戻るなら、焼肉でも食べにいかんかね」
私の家では、お盆や正月など、家族が集まるときは決まって
焼肉を食べる習慣がある。
焼肉=ご馳走 という構図が今だ根強く残っている家なのだ。
こうしてオカンとオトンと私の3人は、
焼肉を食べにオカンの運転する車に乗り込んだ。
すると、(これはいつものことなのであるが)オカンがうるさいのである。
「あんた、ここの田んぼ駐車場になってまったがね。知っとる?」
「この道曲がったら津田さんの家があるがね。
あんた4年生の時一緒だった津田さん覚えとる?」
「この道行ったら渋滞になりそうだけど、この道いかんと一番近道じゃないで、
でも渋滞になったら20分はかかるわ。」
きっとどの家でもオカンはうるさいのである。
さて、しかし、目当ての焼肉屋は夕方以降の営業しか行っておらず、
結局我が家族は何を食べて良いか途方に暮れていたのであるが、オトンが
「『あさくま』はどうだね?」
*『あさくま』は名古屋発祥のステーキ専門チェーン店です。
すると、オカンが
「『あさくま』なんていかん」
オトン、
「やっぱいかんか…」
しかし、何年もあさくまに行っていなかった私は急に懐かしくなり
「『あさくま』でええわ。『あさくま』行きたいわ」
そして「『あさくま』なんかでええんかね」といぶかしげなおかんだったが、
我が家は『ステーキのあさくま』に向かうことになった。
『あさくま』は変わっていた。
一番の違いは、フォルクスのごとく、サラダバーを搭載していたことだ。
私とオカン、オトンはサラダバーのセットを注文し、私はサラダバーを
取りに行こうと席を立った。するとまた間髪入れずオカンは
「行ったらいかん」
オカンは言った。
「店員さんがお皿持ってきてくれるから、それまで動いたらいかん」
店員が皿を持ってくるまでじっとしていろ、そう言うのである。
3人そろって行儀良く店員を待ち続けた我が家であった。
店員が持ってきた皿の上には、カップが2つ乗っていた。
ファミレス好きで、フォルクスにも通いなれている私はこのカップが
スープバー用のものであるということを瞬時に判断した。
しかしオカンは言った。
「こっちのカップにはスープを入れるんだがね。
そんでこっちのカップはアイスだわ。
分かる?こっちがスープでこっちがアイス」
半ば呆れがちに聞いていたのだがオカンは留まるところを知らなかった。
「サラダバー言うとるけど、あさくまはサラダバーだけじゃないで。
スパゲティーもあるで。あそこ(指を差して)見える?敬也くん
あそこにスパゲティーあるで、あのスパゲティーも入れて、
だからサラダ取りすぎるとスパゲティー取れんくなるでそのへんは
ちゃんと計算しとかんといかん。サラダはキャベツたくさん入てて…」
――この瞬間である。
私は、直感した。
どうしてオカンが「面白い」のかを。
どうして、オカンがこれほどまでに、コントや本のネタになり、これほどまでに
親しまれている題材なのかを。
● そこに愛があるからである
オカンの車に乗ったとき、オカンはしゃべり続けた。
「あんた、ここの田んぼ駐車場になってまったがね。知っとる?」
「この道曲がったら津田さんの家があるがね。
あんた4年生の時一緒だった津田さん覚えとる?」
「この道行ったら渋滞になりそうだけど、この道いかんと一番近道じゃないで、
でも渋滞になったら20分はかかるわ。」
どうしてそんなことをいちいち口にするんだろう。
どうしてオカンはわざわざ景色を実況中継をするんだろう。
どうしてオカンは独り言を口に出すんだろう。
『あさくま』でもオカンはしゃべり続けた。
「サラダバー言うとるけど、あさくまはサラダバーだけじゃないで。
スパゲティーもあるで。あそこ(指を差して)見える?敬也くん
あそこにスパゲティーあるで、あのスパゲティーも入れて、
だからサラダ取りすぎるとスパゲティー取れんくなるでそのへんは
ちゃんと計算しとかんといかん。サラダはキャベツたくさん入てて…」
どうしてオカンはいちいち説明するのか。
それは、たぶん。
オカンはそうやって子供を育ててきたからだ。
オカンはそうやって僕やあなたを育ててきたからなのだ。
きっと、世界を知らない子供に、
「これは、○○ですよ」
「○○は危ないよ」
そうやって、1つ1つ説明してきたのではないか。
そして、何でも知りたがる子供に、正直に答えてあげるために
「今、お母さんはこんなこと考えているよ」
「今お母さんはこう思っているよ」
ということを、全て「口に出して」言ってきたのではないか。
僕たちが、人とコミュニケーションを取るときに必ず「フィルター」を通す。
「こういうことを言ったら相手はどう思うだろう。」
そして
「自分はどう思われるだろう」
しかし、その「フィルター」が子供には分からない。
だから、オカンは
子供が生まれてから、
そのフィルターを外したのだ。
だから、どこの家庭でも、
オカンはしゃべる。しゃべり続ける。バカみたいにしゃべる。
それが滑稽で僕たちはオカンを笑うのだけど、しかし、
僕たちが笑える本当の理由は、
そこに、オカンの愛があることを、無意識のうちに感じているからだ。
「笑えない」という言葉が存在する。
どれだけ良くできた話でも、あり得ないような毒舌でも、
そこに「安心感」がなければ笑えない。
「笑い」とは、ある一定の「安心」のもとに存在する化学反応である。
オカンはなぜ面白いのか?
そこに安心感があるからである。
なぜなら、オカンの滑稽さは、すべて
あなたに対する愛がベースになっているからである。
「欲しい物はない?」と私はオカンに聞いた。
間髪入れず「ない」とオカンは答えた。
それは、やはり、言い古された言葉だけど、子供が幸せに生きていれば
自分の幸せはどうでもいいという、そんなオカンの愛に裏打ちされた、
間髪入れない0.5秒の「ない」という即答なのではないか。
オカンが、面白い理由。
そこに、愛があるからである。
小林君は、4月に結婚しました。
おめでとう!
じ〜んと心にしみる文章です。
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母親(通称・オカン)は
「ダウンタウンのごっつええ感じのコント」
「次長・課長の河本のオカン話」
を始めとしてお笑い芸人のコントや漫才において、
最もネタになることが多い題材である。
また、自分の母親の面白おかしく取り上げるブログやウェブサイトも存在
する。こうした滑稽なオカンネタは、多くの人にとって、「分かる、分かる」
と「共感」を呼ぶネタであり、未来永劫、人の会話においてオカンは存在し、
オカンの行動や仕草は(ある意味で)バカにされ続けられるであろう。
オカン。
それは1つのジャンルを築き上げている。
しかし、ふと、思った。
どうしてこれほどまでに母親は面白いのだろうか?
オカンの面白さ。
そこには「共感」という一言では語り尽くせない何かがあるような気がした。
そこで、先週、実家に帰る機会を持った私は、
その理由を探ってみることにした。
周囲にいる若い女性とオカンの違いを観察してみることにしたのだ。
リリーフランキーの東京タワーを読んだばかりだった私には、
猛烈な「親孝行欲」が生まれており、実家に帰るなり、オカンに言った。
「親孝行がしたいのだけど、何かやりたいこととか、欲しいものない?」
すると、0.5秒でオカンは言った。
「ない」
あまりの間髪入れなさ、そして潔さに閉口せざるを得なかった私であるが、
隣に座っていたオトンにも聞いてみた。
「何か欲しいものない?」
「ない」
なんたる無欲。
この人たちはどこに向かって生きているのだろう、と本気で疑問に思った。
しかし、しばらくしてからふとオトンの顔に光が生まれた。オトン言った。
「あ、ある!」
そしてすっくと立ち上がったかと思うと両手を腹のあたりに添えて、
「こうやって腹に巻くだけで脂肪が落ちるいう機械あるらしいがね。
テレビでやっとったが。あれ欲しい」
すると今度は、0.2秒でオカンが言った。
「あんなもん嘘だが」
するとオトンは
「やっぱ嘘かね…」
そういって肩を落とし、座っていた椅子に戻った。
この時も。
オカンの存在ややりとりがなんだが面白いということは感じるのであるが、
「どうして面白いのか」その理由はまだ理解できていなかった。
しかし、あくる日。
私は、オカンがどうして面白いのか、
そのヒントとなる事実を発見したのである。
私が東京に戻る日の昼。
オカンが言った。
「あんた今日戻るなら、焼肉でも食べにいかんかね」
私の家では、お盆や正月など、家族が集まるときは決まって
焼肉を食べる習慣がある。
焼肉=ご馳走 という構図が今だ根強く残っている家なのだ。
こうしてオカンとオトンと私の3人は、
焼肉を食べにオカンの運転する車に乗り込んだ。
すると、(これはいつものことなのであるが)オカンがうるさいのである。
「あんた、ここの田んぼ駐車場になってまったがね。知っとる?」
「この道曲がったら津田さんの家があるがね。
あんた4年生の時一緒だった津田さん覚えとる?」
「この道行ったら渋滞になりそうだけど、この道いかんと一番近道じゃないで、
でも渋滞になったら20分はかかるわ。」
きっとどの家でもオカンはうるさいのである。
さて、しかし、目当ての焼肉屋は夕方以降の営業しか行っておらず、
結局我が家族は何を食べて良いか途方に暮れていたのであるが、オトンが
「『あさくま』はどうだね?」
*『あさくま』は名古屋発祥のステーキ専門チェーン店です。
すると、オカンが
「『あさくま』なんていかん」
オトン、
「やっぱいかんか…」
しかし、何年もあさくまに行っていなかった私は急に懐かしくなり
「『あさくま』でええわ。『あさくま』行きたいわ」
そして「『あさくま』なんかでええんかね」といぶかしげなおかんだったが、
我が家は『ステーキのあさくま』に向かうことになった。
『あさくま』は変わっていた。
一番の違いは、フォルクスのごとく、サラダバーを搭載していたことだ。
私とオカン、オトンはサラダバーのセットを注文し、私はサラダバーを
取りに行こうと席を立った。するとまた間髪入れずオカンは
「行ったらいかん」
オカンは言った。
「店員さんがお皿持ってきてくれるから、それまで動いたらいかん」
店員が皿を持ってくるまでじっとしていろ、そう言うのである。
3人そろって行儀良く店員を待ち続けた我が家であった。
店員が持ってきた皿の上には、カップが2つ乗っていた。
ファミレス好きで、フォルクスにも通いなれている私はこのカップが
スープバー用のものであるということを瞬時に判断した。
しかしオカンは言った。
「こっちのカップにはスープを入れるんだがね。
そんでこっちのカップはアイスだわ。
分かる?こっちがスープでこっちがアイス」
半ば呆れがちに聞いていたのだがオカンは留まるところを知らなかった。
「サラダバー言うとるけど、あさくまはサラダバーだけじゃないで。
スパゲティーもあるで。あそこ(指を差して)見える?敬也くん
あそこにスパゲティーあるで、あのスパゲティーも入れて、
だからサラダ取りすぎるとスパゲティー取れんくなるでそのへんは
ちゃんと計算しとかんといかん。サラダはキャベツたくさん入てて…」
――この瞬間である。
私は、直感した。
どうしてオカンが「面白い」のかを。
どうして、オカンがこれほどまでに、コントや本のネタになり、これほどまでに
親しまれている題材なのかを。
● そこに愛があるからである
オカンの車に乗ったとき、オカンはしゃべり続けた。
「あんた、ここの田んぼ駐車場になってまったがね。知っとる?」
「この道曲がったら津田さんの家があるがね。
あんた4年生の時一緒だった津田さん覚えとる?」
「この道行ったら渋滞になりそうだけど、この道いかんと一番近道じゃないで、
でも渋滞になったら20分はかかるわ。」
どうしてそんなことをいちいち口にするんだろう。
どうしてオカンはわざわざ景色を実況中継をするんだろう。
どうしてオカンは独り言を口に出すんだろう。
『あさくま』でもオカンはしゃべり続けた。
「サラダバー言うとるけど、あさくまはサラダバーだけじゃないで。
スパゲティーもあるで。あそこ(指を差して)見える?敬也くん
あそこにスパゲティーあるで、あのスパゲティーも入れて、
だからサラダ取りすぎるとスパゲティー取れんくなるでそのへんは
ちゃんと計算しとかんといかん。サラダはキャベツたくさん入てて…」
どうしてオカンはいちいち説明するのか。
それは、たぶん。
オカンはそうやって子供を育ててきたからだ。
オカンはそうやって僕やあなたを育ててきたからなのだ。
きっと、世界を知らない子供に、
「これは、○○ですよ」
「○○は危ないよ」
そうやって、1つ1つ説明してきたのではないか。
そして、何でも知りたがる子供に、正直に答えてあげるために
「今、お母さんはこんなこと考えているよ」
「今お母さんはこう思っているよ」
ということを、全て「口に出して」言ってきたのではないか。
僕たちが、人とコミュニケーションを取るときに必ず「フィルター」を通す。
「こういうことを言ったら相手はどう思うだろう。」
そして
「自分はどう思われるだろう」
しかし、その「フィルター」が子供には分からない。
だから、オカンは
子供が生まれてから、
そのフィルターを外したのだ。
だから、どこの家庭でも、
オカンはしゃべる。しゃべり続ける。バカみたいにしゃべる。
それが滑稽で僕たちはオカンを笑うのだけど、しかし、
僕たちが笑える本当の理由は、
そこに、オカンの愛があることを、無意識のうちに感じているからだ。
「笑えない」という言葉が存在する。
どれだけ良くできた話でも、あり得ないような毒舌でも、
そこに「安心感」がなければ笑えない。
「笑い」とは、ある一定の「安心」のもとに存在する化学反応である。
オカンはなぜ面白いのか?
そこに安心感があるからである。
なぜなら、オカンの滑稽さは、すべて
あなたに対する愛がベースになっているからである。
「欲しい物はない?」と私はオカンに聞いた。
間髪入れず「ない」とオカンは答えた。
それは、やはり、言い古された言葉だけど、子供が幸せに生きていれば
自分の幸せはどうでもいいという、そんなオカンの愛に裏打ちされた、
間髪入れない0.5秒の「ない」という即答なのではないか。
オカンが、面白い理由。
そこに、愛があるからである。
Posted by 遠州ナビ山下隆宏 at 22:00│Comments(0)