大人気!格安名刺製作承ります。(webでやりとり、見本でデザイン費込) HP作成も承ります。

2007年02月13日

生まれて生きて死ぬ 第2話

生まれて生きて死ぬ 第2話

浜松に住んでいたのは1年くらいだったのかな?


お父さんは、ダンプの運転手をして
お母さんは、ヤクルトの配達とかをしていたなぁ。

借家は、ちっちゃくて、2部屋ぐらいしかなかった。

3才の七夕の日、浜松に大雨が降りました。
これが昭和47年の七夕豪雨です。

その夜、かなり遅い時間でした、
まだ、3才の私は、揺り起こされます。

「隆宏、川の土手がきれて、家の周りは水びたしだから逃げるよ。お父さんの背中に、しっかり捕まりなさい。とにかく、手を放しちゃだめだに」

と言われて寝ぼけながら、お父さんの背中に捕まり
玄関をあけると、外はいつもは道があるのに川になっていた。

そりゃ、恐ろしかったですよ。3才だし…。

お父さんが、道も無いのに、腰のあたりまで水につかりながら
私をおんぶして、近くの2階がある家までいってくれました。

それで1日は、雨が止まなくて…子供は神棚にそなえてあった
固〜いご飯を食べて、しのぎました。

あくる日、救援のボートが来て、それに乗り込んだとき渡された
牛乳とパンの味は、今まで食べた食べ物の中でいちばん美味しかった気がする。

借家が、水浸しになり、山下一家3人は
小笠の、これまたちっちゃな借家に引越すことになります。

小笠の幼稚園では、いい想い出がないなぁ…。
たしか、うんこもらしちゃって…、いじめられた気がする…
引っ込み思案で、いくじがなくて、ダメダメの子供だったなぁ。

そして、5才のとき
お父さんの山下隆男さんは、ついに家を購入します。
それが今、住んでいる菊川市下内田の家です。

すごいねお父さん、28才のときに家を買ったんだから…。
ものすごく感謝しています。家族のためにありがとう。
まだ、この団地に家が少なくて4軒しかなくて、
だんだんと増えて来たら、まずソフトボールチームをつくって。
次はお祭を立ち上げて、屋台をお金だしあって買って…。
今の団地の基礎をつくったのは親父達だなぁ、と改めて想う。

今ではこの団地には50戸近い家があります。

私は 菊川町立内田小学校に入学しました。
歩いて700Mぐらいの距離なんだけど、この微妙な距離が難関だった。
それは、やはりうんこの問題。
学校でして見つかると、水かけられたり、笑われたり
大変なことになる時代でしたから… 今でもそうなのかなぁ…。

で、がまんして、家まで帰ろうとすると…催すわけなんですよ。

だから、野原でできる最適なポイントさがしが重要です。

同じ考えの人がいて、たどりついたと思ったら
先にした人のブツが残っていたりするんですね。 あぁ、もう汚いからやめよう。


入学してからは、目立たない大人しい子供 でした。
お父さんもお母さんも働いているので鍵っ子ってやつでした。

しかし、そんな鍵っ子な私の前に救世主が現れます。
白畑儀一郎、私の母方の祖父です。

森町では仕事がないので、菊川に出稼ぎにやってきたのです。
しかも、ポンポンにのって…。

このおじいちゃん、なんとパチンコやら何やら借金のかたに家まで取られて
お母さんの家族にとっては最悪な大黒柱だったらしいけど、
私にとっては違いました。

欽どこ(欽ちゃんどこまでやるの)を毎週見て
採用されることはないのに
「隆宏これ、面白いだろ。今度は絶対、テレビで流れるぞ」
と言っては毎週応募していました。

将棋、麻雀、花札、釣り、トランプ など
全部、おじいちゃんに教えてもらったなぁ。

特に、インチキの仕方まで丁寧に教えてくれたっけ(笑)

どんなときでも、笑顔で前向きだったなぁ…

亡くなる直前も、私の顔を見ると「隆宏かっ、どうだ調子は」
って必ず言った。(たぶんギャンブルのって意味だと思う)

おじいちゃんが亡くなった夜、
浜松で仲間と麻雀をやっていた。

ちょうど亡くなった時刻あたりに
「国士無双」を「東」をつもってあがったことは忘れない。

おじいちゃんは、私の後ろで見守っているような気がする。



Posted by 遠州ナビ山下隆宏 at 21:18│Comments(0)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
生まれて生きて死ぬ 第2話
    コメント(0)