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2009年05月31日

二宮尊徳と報徳

二宮尊徳と報徳

二宮金次郎の農村復興事業が、日本人
の勤勉な国民性を形成した。


■1.「学者につきあっている暇はない」」■

 天保10(1839)年6月1日、相馬藩(現在の福島県相馬市)
藩士の富田高慶(こうけい、26歳)は、二宮金次郎に弟子入
りを頼もうと、やってきた。

 富田は相馬藩の財政難を救いたいという志を持って、江戸に
出て儒学を学び、数年にして師の代講ができるほど学業は進ん
だ。しかし、相馬藩の財政問題を解決できるような実践的な教
えには出会えなかった。

 そんな時、金次郎が村々の復興に着々と成果を上げていると
聞き及び、「それこそ自分の求めている師に違いない」と身の
周りを整理して、金次郎のもとを訪れたのである。

 しかし、金次郎は「儒者や学者に会う必要はない」とにべもな
かった。「自分は荒廃した農村を復興し、衰亡していく農家を
救うのに忙しいのだ。理屈屋の学者につきあっている暇はない」
と会ってもくれなかった。その後、数日おきに4度も訪問した
が、面会を許されなかった。それでも富田はあきらめることな
く、近くの村に漢学の寺子屋を開き、それで生計を立てながら、
面会の機会を待ち続けた。

 待つこと4か月。ついに金次郎もその熱意に打たれて「それで
は会ってみようか」と初対面が実現し、その場で入門を許した。
金次郎がなかなか面会を許さなかったのは、相手の真剣さを試
すためであった。

■2.相馬藩の財政破綻■

 相馬藩はもともと禄高は6万石、226カ村に人口8万人を
抱える藩だった。藩は山野の開墾を奨励し、農民たちも豊かに
になった。そこで相馬藩は検地をし直して、新たに開墾された
3万8千石にも年貢を課した。

 収入が増加したので、藩財政も放漫となった。一方、農民は
農地開墾の意欲を失い、ひいては日々の農作業への志気も低下
して、収穫は減少していった。藩は不足する収入を借金でまか
ない、その利子払いのために課税を増やし、ますます農民は窮
乏する、という悪循環に陥っていた。

 そこに天明の大飢饉が襲いかかり、領民人口は餓死、離散に
より半減した。藩の借金も30万両を超えた。そこで藩主・相
馬益胤(ますたね)は、草野正辰(まさとき)と池田胤直(た
ねなお)の二人を家老に抜擢して、藩の復興を命じた。

 二人の家老は藩の経費を大幅に削り、年貢米を引き下げ、ま
た用水路の補修などを通じて、生産の回復に努めた。こうした
努力が10年続き、ようやく復興が軌道に乗り始めた頃、今度
は天保の大飢饉が襲いかかった。米の出来高は10分の一以下
に激減した。

 藩は備蓄米を放出し、また藩外から米を買い集めて、なんと
か領民を救ったが、藩財政は振り出しに戻ってしまった。この
危機に藩主の座を継いだのが、嫡子・充胤(みちたね)だった。
充胤は幼少の時から草野の手できびしく教育され、賢明な人物
に育っていたが、いかんせん、まだ若く経験がない。一方、草
野は70歳、池田も50歳を超え、これから藩を引っ張って行
くには年を取りすぎていた。

 26歳の富田高慶が藩の危機を憂えて、金次郎の許を訪れたの
は、こうした時だった。

■3.「そもそも相馬藩には分度が確立しておるのか」■

 富田は金治郎の人物に接して、「相馬藩を救うには、二宮先
生の力によるほかはない」と確信し、草野、池田の両家老に報
告した。二人とも非常に喜び、「ぜひ二宮先生に藩政再建をお
願いしよう」と決心した。藩主もすぐに賛成して、郡代の一条
七郎左右衛門を金次郎のもとに派遣した。

 富田が一条と会ってくれるよう頼むと、金次郎は「多忙である
から、そのような暇はない」と断った。

 藩の基本に関するものは、藩主みずからが行うべきもの
である。藩主が本当にやる気があるなら、藩主が教えを聞
きに来るべきである。しかし、藩主がみずからというわけ
にはいかないとすれば、藩政の責任者(家老)がやって来
るべきではないか。郡代の一条殿では、藩政の責任者だと、
わたしは認めない。一条殿はわたしから復興の対策を聞き
たいのであろうが、わたしの言いたいのはそのような方法
論ではなく、藩政の基本方針である。そもそも相馬藩には
分度が確立しておるのか。

「分度」とは、藩の実収入から、返すべき借金の利子などを差
し引いて、残った額である。藩の経費を身の丈にあった分度ま
で切り詰め、借金を返済しながら、剰余金が出れば領内の復興
事業に充てる、というのが、金次郎のアプローチであった。た
だ藩全体が何年も分度内で切り詰めた生活をするには、非常な
覚悟がいる。金次郎は、その覚悟のほどを見極めたかったので
ある。

 富田が「とても分度を決める段階にまで行っていない」と答
えると、金次郎は「分度も決まっていないのに会う必要はない」
と突っぱねた。富田がこれを一条に伝えると、「二宮先生のお
考えがそのように深いとも知らず、簡単に考えていて恥じ入る
ばかりです」と、金次郎に会えないまま、国許に報告に帰った。

■4.「小さなものを積み上げて、大きなものにする」■

 翌年、江戸詰め家老の草野が、金次郎を訪ねた。草野が藩内の
数千町歩の荒地を開墾するにはどうしたら良いかと聞くと、金
次郎はこう答えた。

 それは小さなものを積み上げて、大きなものにする、そ
れしか方法がありません。また、それが一番いい方法なの
です。いま日本の国には何億何万町歩という田畑がありま
すが、これも一鍬(くわ)一鍬、耕し、それを積み上げた
ものです。一鍬一鍬積み重ねて怠らなければ、何万町歩の
荒地といえども開発可能です。[1,p387]

「小さなものを積み上げて、大きなものにする」、これが金次郎
の「積小為大」の思想であった。

 草野は感激し、「これからはその教えにしたがって、相馬藩
の復興に生命をかけよう」と固く心に誓った。

 しかし、国許では余所者の金次郎に頼ることへの反対が強かっ
た。「わが相馬家は、代々この地を治めて6百年になり、その
間に盛衰はあったが、一度も他から力を借りたことはない」と
いう誇りからだった。

 国許家老の池田胤直が熱心に家臣たちに説いたが、それでも
納得しないものが多かった。家中の意見がなかなか一致しない
のを見るに見かねた藩主・相馬充胤は「凡人はいつも目の前の
ことにこだわって、事の本質が見抜けない。いつまでもそんな
者の意見にこだわっている必要はない」と断じ、国許家老の池
田を江戸に呼び寄せて、「二宮先生の教えにしたがい、草野と
力をあわせて相馬藩の復興を推進するように」と強く命じた。

■5.60年に渡る復興計画■

 両家老は一緒に金次郎に会い、改めて「分度」の確立の大切
さを理解した。二人の報告を聞いた藩主は、さっそく自筆で依
頼書を書き、両家老がそれを金次郎のもとに届けた。金次郎は
その書を読んで、「藩主の相馬公がこのように仁の心が厚く、
忠臣が多ければ、藩の復興はまちがいない」と嘆賞した。

 草野は分度の確立のために、過去188年間の財政資料を調
べ上げた。最初の60年は14万俵の租税収入があったが、そ
れが直近の60年にはその半分以下に落ち込んでいた。

 金次郎はこの調査から、今後10年を復興第一期とし、その
間の分度を6万6776俵と定めた。それ以上の租税収入は領
内復興の費用にあてて増産を図り、その結果を見て11年目以
降の第2期からの分度を見直す。これを繰り返して、60年で
藩政復興を計るという雄大な計画だった。

 この計画書を見て、反対してきた家臣たちも、初めて賛意を
表した。分度以上の収入は、復興資金として特定の村に注ぎ込
む。これを模範村として、10年かけて徐々に増やしていく。

 その模範村として名乗りを上げたのが、宇陀郡の成田村と坪
田村だった。この2カ村の代官助役をしていた高野丹吾は、今
まで両村の復興に力を尽くしていたが、金次郎の話を伝え聞い
て、村民たちに呼びかけた。両村の名主をはじめ村人も大賛成
だった。

 高野は両村の戸数、田畑・荒地の面積、村民の貧富の度合い
などを調査し、復興事業嘆願書をまとめて、国許家老の池田に
差し出した。池田は喜び、「さっそく高野自身が江戸に行って、
二宮先生にお願いするように」と命じた。

 高野は江戸家老・草野に連れられて、金次郎に会った。金次
郎は「成田村、坪田村が、そのように率先して誠意を示してき
たのは賞賛すべきことである。では、さっそくこの両村から始
めよう」と、答えた。そして、金次郎は多忙でとても相馬には
いけないので、富田高慶を代理の指導役として派遣した。

■6.「村民みずからが積極的に動かなければ駄目なんだ」■

 富田と高野は、成田村の村民一同を集めて、復興事業の計画
をくわしく説明した。その開始にあたって、まず勤勉な者12
人を投票で選び、表彰した。さらに屋根の傷みのひどい家を投
票で3軒選び、修繕をした。坪田村でも同じ事をした。

 こうした動きに、両村の村民たちは感激し、今までの怠惰の
風は一気に改まった。これまでは正月は半ば頃まで、酒興にお
ぼれ、遊びほうけていたのが、この年は正月2日から縄ないを
始め、4日からは山野に入って薪をとり、柴を刈り、農作業を
始めていた。

 さらに富田は村人を指揮して、道路、橋、用水路の修復、そ
して荒地の開墾に着手した。村人たちは希望に満ちて、再建事
業に邁進したのだった。



Posted by 遠州ナビ山下隆宏 at 10:41│Comments(0)
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